中学一年生のクラスより
担任:倉持一己
「僕/私の夏休み」
オーストラリアの夏休みは、クリスマス休暇を挟んで新年の休みと重なり、1カ月半に及ぶ長い夏休みになります。今年度の中学一年生は、休み中どんなことをしたり体験したりしたのか、その思い出を綴ってもらいました。皆さん、とても思い出深い休みを過ごしたようです。
キラコブスキー・ダニエル翼
僕の場合、「ぼくの夏休み」ではなく「冬休み」でした。なぜなら、寒い日本でお正月を過ごしたからです。
寒い思いをして、毎日、日本の中学校に通いました。たまにですが、母に車で送ってもらいました。中学校で新しい友達もでき、国語以外の教科は授業についていくことができました。
クリスマスは、例年に比べて全然寒くありませんでした。
スキーに初めて行きました。初めはおじさんと滑って、なかなかうまく滑れないのでイライラしましたが、スキー教室に参加した後は、うまく滑れたのでとても楽しくなりました。
そして、僕にとっては初めての悲しい出来事がありました。僕のおじのおじが亡くなり、お通夜、お葬式に出たことです。お通夜では、母のいとこと一緒に手伝って、お線香を絶やさないようにしていました。その後のお葬式では、骨も箸で拾って骨壺に入れました。
悲しい思い出です。
利根川留果
毎年クリスマスは、同じように過ごします。お母さんと妹と私で、キャサリンの家に行って、クリスマスパーティーをします。
キャサリンは、補習校のクラスメイトでしたが、やめてしまいました。通っている学校も違いますが、私の母はキャサリンの母のレイコさんと仲が良いので、お互いの時間が合えば一緒に遊びます。
パーティーでは、レイコさんがポーランドのクリスマスの料理、ツエルブデッシ(十二種類の料理)を作ってくれます。料理の名前はわかりませんが、ビートルートのスープに、トウトリーニが入っている料理が一番好きです。トウトリーニは、パスタの中にヴィール(子牛)が入っているものです。デザートのマコービエッツは、レモンの皮のすりおろしとポピーシード(ケシの実)を巻き込んで、焼いてあるパンみたいなものです。
お正月には、毎年、キャサリンの家族のレイコさん、キャサリンと弟のクリスが、私の家に来てお雑煮を食べます。
キャサリン達は、あまりお雑煮が好きではないので、カレーも食べました。そして、食べ終わったら、一緒にゲームで遊びました。Wiiのコントローラーは、キャサリン達も持ってきてくれたので、キャサリン、クリス、私の妹と私で、「星のカービィー」や皆で遊べるゲームをしました。先に飽きたのは私の妹で、テレビでポケモンの映画を見始めました。キャサリンも飽きたようで、ポケモンを見に行きました。私は、クリスが日本語が読めないというので、画面の表示を通訳してあげました。少し後になって、私も飽きてきたので、ポケモンを見に行きました。クリスは、遊んでいたスターウォーズレゴに飽きてから、一緒にテレビを見に来ました。
夜には、カレーとシュウマイを食べて、みんなで力尽きて寝てしまいました。
山下多奈亜
今年、僕は夏休み中に日本に行きました。日本行のフライトは、ケアンズから成田まで7時間もかかりました。飛行機の中では何もすることがなかったので、機内にあるタブレットを使って、映画を見ていました。そして、新しくできた成田空港第三ターミナルに着陸しました。その後、その夜泊まることにした成田ホテルに行き、最初の一日が終わりました。
次の日、僕たちは成田から出て池袋に向かいました。途中で、明日行く予定の東京タワーが見えてきました。今夜泊まる池袋のホテルに荷物を置いてから、浅草にある雷門に向かいました。そこには色々な店があり、まるで市場のようでした。お店の奥まで行くと、大きな寺がありました。そこでお参りをし、セブンイレブンで東京スカイツリーのチケットを買い、ホテルに戻りました。
次の日、僕たちは朝一番にスカイツリーに向かいました。チケットを買った時、昼間や夜のチケットはすべて売り切れていたので、朝のチケットを買うしかなかったのです。僕たちは、エレベーターに入るまで5分くらい待っていました。エレベーターの中に入ると、そこは秋の木の葉模様になっていたので、すごくきれいでした。展望デッキまでつくと、僕はエレベーターから走って出ていきました。窓の外に見えたのは、東京の街すべてでした。ここからは、東京タワーまで見えました。
でも僕が一番初めに思ったことは、どうやって東京が70年間でこんな風にすごい街になったのかな、と言うことでした。原子爆弾の後、たった70年間でこんな大きな都市をどうやって作り上げたのかな~と思いました。それでも、風景はすごくきれいでした。スカイツリーを降りて、その後ホテルに帰り、また一日が終わりました。
その次の日には、東京ディズニーシーに行きました。すごく楽しかったです。
その後実家に向かい、そこでおじいちゃん、おばあちゃん、友達に出会って、学校に行ったり遊んだりして、6日間過ごしました。
それからオーストラリアに帰りました。
中学二年生のクラスより
大志を抱き、道を拓く
担任 中島 信也
志を立てると書いて「立志(りっし)」。日本国内の中学校では、2年生になると奈良時代頃から行われている「元服(げんぷく)の儀」(女子は「裳(も)着(ぎ)」)にちなみ、一人の大人として自分の将来の志を立て、自立する年齢になったことを祝うため、言葉を変えると、将来の夢や希望、あるいは願いや目標に向かって歩き始める門出の日となるための「立志式」を執り行う学校が多いです。多くの人が将来を考える時に影響されるものに使命感や向学心、家庭環境などがありますが、中でも「人との出会い」がその後の人生に影響することは多いでしょう。みなさんがこれからも、多くの人との出会いや別れを繰り返す中で、知性を磨き、感性を研ぎ、体を鍛え、自らの人生を切り拓く力をつけていけるよう、そして尊敬する人物に少しでも近づけるように強い意志を持って努力してください。
「ぼくの前に道はない、ぼくの後ろに道はできる」 ~ 高村光太郎「道程」~
憧れの人
青柳 凪
「憧れ」、そうなりたいと強く心をひかれ、そうしたいと望むこと。又、理想とする物事や人物に好意を持ち、思い焦がれること。「尊敬する人のようになりたい」という気持も憧れです。それに、貴方の憧れの気持が強ければ強いほど更に努力をしその上があるそうです。
みなさんが今、趣味でしていることで目標や憧れの人はいませんか。私は、音楽の先輩に憧れています。昨年、卒業してしまいましたが、いつまでも一番に尊敬しています。
この人は、何をしても優れています。音楽でも勉強でも、何でも完璧です。そして彼女は、誰にでも優しく、穏やかに話しかけてくれます。これは、もちろんどんな時にもです。いつも笑顔で、行動も明確です。彼女は、振る舞いも良く、平等にみんなに話しかけ、気品のある話し方をされています。
私は、これから努力を重ね続け、この先輩のようになりたいです。いいえ、絶対になります。なりたいと思います。
僕が尊敬する人
池田 月秀
「プラモデルは、自由だ。」これは、僕が尊敬する川口名人と呼ばれている、川口克己さんの言葉です。
川口さんは、法政大学経営学部出身で、大学生時代に小田雅弘さんと高橋昌也さんと共に、モデラー集団「ストリームベース」を結成されました。「機動戦士ガンダム」に登場するロボットの模型をフルスクラッチ、つまり完全自作されました。また、模型業界にも携わり、バンダイからそのプラモデルが発売され、一大ブームが作られました。こうしてガンダムのプラモデルが誕生したそうです。そして、1985年にバンダイに入社し、社員としてガンプラ開発に関わり始め、ついには、バンダイ側のガンプラ企画責任者として模型雑誌等で活躍されるようになりました。もし、この人がいなければ、今あるガンダムのプラモデルはなかったでしょう。
僕も川口さんのようにものを1から作り、そして新しいものを作ってみたいと思います。
努力がつなぐ道
長井 きらら
「筋肉は裏切らない。」彼はそう言って努力をし続けています。そう話す私の尊敬する人は、知り合いの宇井悠馬さんです。彼は今、日本でジムのトレーナーをしています。少し前までオーストラリアに住んでいました。私は、宇井さんが様々なことに挑戦して、努力を積み重ねている姿を見て、とても彼を尊敬しています。
宇井さんがオーストラリアに居る頃は、日本食店のシェフをやっていました。自ら自分の家でバリスタの練習をされていて、その頃から努力家だと私は思っていました。練習のために奥さんにコーヒーを飲んでもらったりして、今ではコーヒーアートも出来るようになられたそうです。それから日本に戻り、実家の電気屋さんで少し働いて、その後、ジムトレーナーになられました。毎日、食事制限をして、トレーニングをおこたらず、筋肉の勉強もして接客もされています。自分がやってみたいと思ったことは迷わずにされています。
私は、常に努力しつづけている所がすごいと思っています。とても優しい人で、友達もたくさんいる人です。そんな所も尊敬しています。私も宇井さんのように色々な事に挑戦したいと思っています。
音楽を武器に
宮村 楓
「音楽」と言う言葉一つでジョエーン・ライトさんの人生を表すことができます。この人が私の歌の先生です。
ジョエーンさんは、ケアンズで一番のピアニストと言われるお母さんの指導で、ピアノ、ダンスと歌を小さい頃から習い始めました。中学2年生になると、ピアノで「オーストラリアン・ミュージック・イグザミネーション・ボード」という試験のグレード5に合格し、歌のコンクールや試験も受け、高校を卒業してからは、歌を真剣に学び始めたそうです。そして、オーストラリアン・ミュージック・イグザミネーション・ボードで「サティフィケーション・オブ・パフォーマンス」獲得されました。
1994年にジョエーンさんは、ケアンズで歌を習いたい子どものために「ケアンズ・ヤング・ボイス」というプログラムを作りました。その後、彼女のお母さんの「コーラル・ソサエティー」にも入り、サウンド・オブ・ミュージックでは主役のマリアや、ファンタム・オブ・ザ・オペラのカーロッタなど、数えられないほどミュージカルに出演することができたそうです。
私は1週間に4回、ジョエーンさんに歌や音楽を習っています。毎回笑顔で教えてくれる彼女を尊敬しています。私も「音楽を武器」に生きていきたいと思います。
私の尊敬する人物
ミラー星来
私の身近な尊敬する人物は、私の母です。私の母、ミラー美穂子は1971年生まれ、兵庫県神戸市生まれです。1997年にオーストラリアに引っ越してきたそうです。理由は「なんとなく。」だそうです。
母は当時、英語が全く話せず、某ハンバーガー店で注文したものと出てきたものが全く違うほど話せなかったそうです。その後、私の父と出会い、結婚したそうです。
少し前になりますが、父はあまり慎重に考えず行動する人なのに店の経営を始めるといいだしました。私は、あわてて父に考え直したほうがいいと、何度も引き留めようとしました。しかし、父は全く聞こうとしませんでした。もちろん家族は全員反対でした。そこで、母が「私に任せなさい。」と言い、見事、頑固な父の考えを変えることに成功しました。私は、そんな機転の利くところを尊敬します。
どんなに頑固で話を聞かない人でも、うまく話術を駆使すれば和解できると知りました。私は母のように、話術を使いこなし、これから日本語を話せるようになりたいと思っています。
中学三年生のクラスより 担任: 益宮純子
親子二人三脚でやっと辿り着いたバイリンガルへの道。
「道は、自分で作る。道は、自分で開く。人の作った道は、自分の道にはならない」
これから先は11人みんなそれぞれ違う道。
「為せば成る 為さねば成らぬ何事も」
前を向いて、自分の番をしっかり歩こう!
世界へ羽ばたけ!
そして、いつかみんなそろって笑って会えるといいね。
「未来のぼくへ」
上中村 翔
「しあわせな人生を送っていますか。」まず、一番に聞きたい質問です。
未来のぼくは、きっと自分でビジネスを興して事業をしているだろう。今の時点では、具体的なビジョンは確立していないですが、これから大学選択する時にもっと絞り込んでいきたいと考えています。
ぼくは、今年の一月に十四歳になって、すぐにタックスファイルナンバーを取りました。なぜなら、公文で働くのに必要だったからです。去年の九月に公文の英語課程修了ができました。すると、公文センターからアシスタントとして生徒を教えるアルバイトを依頼されました。
ぼくにとって初めての仕事です。親からもらうお小遣いではなく自分の力で稼いだ貴重なお金です。今も週に二回ですが、一年近く働いています。仕事をして自覚したのは、自分は人に教えるのが好きな事です。
勉強の他には、空手道場でも子供クラスの指導を手伝っています。小さい子供達を教えるのは大変な事もあります。しかし、一生けんめい教えてあげるとなつかれてとても可愛いです。
「将来のぼくは、人に使われるのではなくて、自分のビジネスでバリバリと楽しく仕事していますか。」「休日には趣味の空出で汗を流して健康的な生活を送っていますか。」 もちろん、その時には黒帯をつけているに違いありません。
未来のぼくは、今のぼくよりも人間としての器も大きくなっていて強い男になっていると願っています。
「夢に向かって」
カデル アンドレア 蓮未
「あなたの将来の夢は?」私は、そう聞かれるといつもはっきりと答える事ができません。
色々なことに興味を持つ私は、やりたいことを細かくしぼる事ができません。
でも最近は、英語と補習校で学んだ日本語を両方活かせる仕事ができればなと、思うようになりました。
私が五年生でオーストラリアに引っ越してきた最初の頃は、日本以外の場所に住みたいと考えたこともありませんでした。
オーストラリアや他の国に住みたいとは思わず、日本に帰ることしか考えていませんでした。しかし、色々な場所を旅行し、そこの生活を味わい、色々な人と出会い話を聞き、違う価値観を知ることにより自分の考えが変化してきました。
さらに、自分の世界が広がって行く気がし、もっと色んな場所に行き、色々な人と関わり自分の知らない世界が見たいと思うようになりました。
それで、将来は、日本語と英語を使う仕事をしながら、色々な国や地域で暮らし、その場所の生活や言語を身につけ、自分の世界を広げて行きたいと思います。その為にも、今から色々な国について勉強しながら、やりたいと思う仕事を探していきたいです。
「補習校での思い出」
上田 咲季
私は小学1年の頃から日本語補習校に通わせてもらいました。初めの頃はクラスに友達もたくさんいて、毎週補習校に行くのが楽しみでしょうがなかったけれど、後々何年か経っていくうちにどんどん友達が辞めていってしまい、クラスメートの数も少くなり、正直何回か「私も辞めたい、休みの日ぐらい普段よりも遅くまで寝て、友達と午前中から遊びたい。」と思った事もありました。
でも、今考えてみると補習校に通ったおかげで、途中で辞めてしまっていたら決して学ぶ事の出来なかった事が沢山あったのだろうという事に気付くことが出来ました。
その中での9年間にわたって、私が唯一気遣うようになったのは「時間を大切にすること」です。
補習校は、たったの3時間ほどの短い限られた時間しかありません。新しい単元を毎週教わるのは結構難しいのですが、その短い時間内で、全力で学習する習慣が付いたおかげで、時間を大切にし授業にもっと集中することが出来るようになりました。また、理解能力が高まり現地の学校でもそれが何度も役立ちました。
そして、現地の学校の子供達と比べたら、宿題の量は倍だし両方の勉強についていくのは大変な時もありましたが、宿題が多いのをわかっている上で前もって物事を始め、終わらせることが出来るようになりました。
「予め始めからできる事はやる。」と言うのが私の日常生活では当たり前になり、全ての事を早くから取り組むことが出来るようになりました。
補習校を辞めずに通い続けた結果、将来的にも役立つスキルを得る事が出来ました。補習校をきっかけとし出会った友達との素晴らしい友情関係を思い出として残し、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。また、そんな長年通い続けた補習校を今年卒業する事にとても達成感を感じ嬉しいばかりです。一生に一度の最高な思い出が出来、本当に良かったです。
「未来の私へ」
ブルック 花
「自分達は未来にどうなっているのか。」タイムマシンで尋ねてみたいですよね。
「職についているのか、お金持ちになっているのか、外見は変わっていたりしているのか。」色んなことを目的に未来の自分を一目でもみてみたいですよね。私もその中の一人です。
自分の未来予想図通りになっているか知りたいです。 理想の未来の私は、ちゃんと働いていて幸せな生活を送っていたら良いなと思います。そのためには、ちゃんと今のうちに努力を積み重ねて理想にたどり着けたらいいなと思います。
今まで怠けたあり、めんどうくさがりやの私ですが、今年からの目標はきちんとしっかり言われたことをやるということです。課題を提出前日までやらず、テスト勉強も怠けていましたが、これからはIB(インターナショナル・バカロリア)に入るという目標があります。
だから、そのために早めに課題を終わらせて、テスト勉強も一週間前からしたりして、きちんと勉強して高得点をとりたいです。
努力も、「塵も積もれば山となる」と信じています。
「将来はトンネルみたいだ」
藤井優佑
「将来、私にはこの作文を読む機会がくるのだろうか。将来望んでいる夢、仕事や生活にはありつけているのだろうか。」
それとも、未だ進路に悩んでいるのだろうか。
今、これを書いている私は、たくさんの感情やイメージが頭の中に溢れています。
今の私にとって、将来は希望と期待に満ち溢れる反面、遠く、暗く、先の見えない色んな道に枝分かれした長いトンネルです。そこで観られる景色はその時の自分にしか見えない、とってもスリリングと不安でいっぱいな道のりです。
今、これを読んでいる皆さんは、私が何を言いたいのか分からない、と思うかもしれませんが、私にとって将来という言葉は大切で、深く大きな意味を持つ言葉です。 私は、純日本人でありながら、生まれも育ちも15年間オーストラリアです。二つの環境の中で育ち、多様でいろいろな文化に接し、学問、生活、そして経験を培うことができました。
私がまだ幼い頃、父や母によく、私はものすごく恵まれた環境の中にいると繰り返し言われていました。そして、今ようやくその意味も少しずつ、理解出来るようになりました。
そこで今、私は思います。人は折角の恵まれたチャンスを逃しては、トンネルの中で間違った道を歩くだけでなく、将来の理想からどんどん離れていってしまうのだと思います。
だから今、この自分に与えられた大きなチャンスを生かし、私の人生の「トンネル」を灯りで照らし、自分の理想の道を切り開いて歩んでいきたいと思っています。
「十年後の自分」
池田隆介
「十年後の自分、いったい何をやっているのだろうか。」そう、僕はたまに思う。
その時、僕がどんな仕事をしていたいかと聞かれたら、まずテニスに関する事か、よく映画に使われるアニメーションなどを使う仕事と答えるでしょう。なぜ、二つあるかというと一つの仕事を失敗してしまったとしましょう。その時、もし僕が一つの仕事しか考えていなかったら、きっとどん底に落ちるにちがいありません。しかし、二つあればその道が開けることでしょう。テニスだって同じです。チャンスショットで決まる可能性は低い時もあります。その時のために前にでてボレーで決めるや、動きが読まれてしまった時は、違うコースを狙う事も必要です。このように、夢を一つより多く、または第二の刃を持つ事が必要だと思います。
僕が、なぜ映画に使われるアニメーションなどの仕事を選んだのか。あれは僕がまだ小学生の頃でした。あの時の僕はメカ系の動画などが好きでした。(今も好きですが。)六年生ぐらいになって、アイアンマンやパシフィックリム、ターミネーターなどの造りが細かい映画やユーチューブで見つけたガンプラのコマ割り動画を見た時興味が出ました。その後、僕はコマ割り動画などを作り始め、今の学校でアニメーション系の授業などを選択しています。
最後に、将来の夢はこれからも変わるかもしれない。
これから身につく新しい技術、夢。自分の未来はわからない。これからもそう思いながら生きていこうと思います。
「私の夢」
イースト賢
やっとここまできた、中学三年生。
中学三年生までずっと苦労して勉強してきました。時々、勉強の時間、泣く思いでしてきた事もありました。
僕の将来の夢はまだ決まってないけれど、将来何をやっても頑張る!と決めています。
夢を持つと前向きに生きられるけれど、様々な事をためして色んな経験をした方がいいと思います。
僕は、日本で生まれて四歳半の時にオーストラリアに引っ越してきました。それから、小学生の時父が僕にチェスを教えてくれ、父に勝つため学校のチェスクラブに参加しました。まだ初心者だったからみんなに負けてばっかりでしたが、頑張ってやっと父に勝つことができました。そして、トーナメントでは、五回勝って二回負けました。中学生になった僕は、ケアンズジュニアで一位になり、学校では有名人になりました。
また、僕はテニスがとても好きです。一週間に四回ぐらい練習をしています。現在、僕はたくさん練習をしたので、トーナメントレベルになる事ができました。この四年間で様々なライバルとゲームをして、頑張ってライバルに勝つことが僕のゴールです。この夏休み中も上手になるため、ほとんど毎日練習しました。すごいテニスプレーヤーになるには、毎日頑張る事だと思います。僕は、勉強もスポーツもできるようになり嬉しいです。
将来の夢は、まだ決まっていないけれど何をやっても頑張って諦めないようにしていきたいです。
「夢」
鈴木 萌
「卒業したら何するの?」これからよく聞かれる質問となる。
私は、大学に行きたいです。でも、正直どの大学に行き何を学びたいのかはまだわかりません。私の周りは将来何をしたいのかもう決めた人達が多いです。
それで、私と一緒に二人で未来の事を相談しました。相談した人とは、幼馴染で親友です。
彼女の将来の夢の話を聞いているうちに「あっ、私もそれしたいな。」と影響された事がありました。
例えば、大学を卒業して日本に住む、それとも大学に行く前に一年間休むなど他にも色々ありました。
ある日、友達が私に提案しました。「萌って旅行に行くのが好きだよね。それなら、空港で働けばどうかな。」これを聞いた時、私は納得しました。
確かに私は、旅行に行くのが好きで空港やどこかのエアーラインで働けばチケットが安くなります。私にとっては理想的な仕事です。でも、この仕事をするのにはお金をたくさん稼がないといけません。そのためには、大学に行って空港で働く前に別の仕事をしないといけないと、私はそう思いました。
これが、私の将来の夢です。問題は大学で何を学ぶのかです。これが決まっていないため、今は学校で良いOPをとって大学で学べることの選択肢を増やします。これは、今の目標で目指しています。そのうちに大学で学びたい事が浮かんでくるかもしれません。
「卒業したら何したいの?」この質問をされたら私の答えは、「大学に行く前に一年間休んでお金を稼ぎます。」です。
「僕の最新で最大の思い出」
楠本 良太
2015年12月12日、僕は、石川県の小松にある松井秀喜ベースボールミュージアムをおとずれました。
小松駅からタクシーに乗りました。運転手さんは、けわしい顔で初めはこわく見えたけれど、実は親切な人でした。なぜなら、ミュージアムに着いた時、メーターを止めて後ろにある松井秀喜さんの家まで回って見せてくれたからです。
ミュージアムは、田んぼの中に建つ白い洋館で、松井秀喜さんのお兄さんが設計したそうです。中学生の入場料は、たったの百円で安くてびっくりしました。ミュージアムに入ると、まず松井選手の銅像がありました。そして、生まれてからの写真や野球に関係した物がたくさんかざられていました。少年時代からメジャーリーグ引退までの実際に着ていたユニフォームを全てかざっていたのがすごいと思いました。
僕が一番興味を持ったのは、ニューヨークヤンキーズ時代の部屋でした。チームメンバーのサイン、旧ヤンキースタジアムの土、スタジアムの椅子、松井選手の使っていたロッカーまで。どうやってアメリカから持ってきたのか不思議でしたが、松井選手のすごい所だと思いました。そして、ガラスケースの中にかざられていたのは、チャンピオンシップリング。そのリングは、ワールドシリーズで勝ったチームのプレーヤーしかもらえない貴重な物でした。他には、ガラスで出来たバットなどめずらしい物もありました。おもしろいのは、小さいころに書いた絵や作文もあった事です。
最後におみやげを見ていたら店員さんが、なんと松井選手のお母さんで、一緒に写真をとってもらう事ができました。
この事は、一生忘れられない思い出となりました。
「はじめ」
ドーソン里佳
全ての出来事には、いつも「はじめ」がある。自分が最初に話した言葉とか初めての仕事とか新しい友達など。全てには「はじめ」があります。私は、この「はじめ」の気持ちやその時学んだ事はとても大事だと思います。なぜなら、その瞬間は体の全てを使った勇気と一生懸命努力した経験の結果だからです。そして、その経験はいつかいい思い出になります。
私にとっての大事な思い出は、ハイスクールに入った初めての日の出来事です。ハイスクールに行った初めての日の朝、新しい制服に着替え、兄と一緒に学校へ向かいました。学校で兄と別れた私は、ヒュー・オーブライアンセンターへ向かいました。そこには、私の学年の生徒達がたくさん集まっていました。胸がドキドキしました。それは、私の目の前にこれから五年間も一緒に学校生活を過ごす皆がいたからです。八時五十分。もう授業が始まっていました。でも、どうして私だけ教室の中に座っていないのか。そう、ちこく。
私は大きな学校の中で迷子になってしまっていたのです。あちらこちらを走り回りましたがなかなか教室がみつかりません。
「いそいで、いそいで。」ろうかを歩いていた先生に言われて、Eブロックへ行きました。そこには、ドアの前で立っている先生がいました。
「ちこくしてすみません。私は、迷子になってしまいました。」
「そこで、待て。」と先生は言いました。最初の日なのに、もう怒られてしまった。
「どうしよう。」と、心が沈みました。先生から嫌われてしまったのかと思いました。最低な初めての日。
ワクワクの気持ちから、ドーンとした沈んだ気持ちになりました。そして、やっと教室の中にいれてもらえました。次の教室に行ったら、知らない人ばかりがいて教室を見回すと私と同じような人、教科書を持ってポツンと立っている女の子がいました。話しかけようと傍に行きましたが、声が出ず少し迷った後、無意識に肩をたたきました。緊張していた私は「こんにちは。」とだけ言いました。その女の子とは、今でも友達です。
何事にも「はじめ」があります。ハイスクール初日の経験は、ワクワクと緊張の混ざった気持ちでしたが勇気の力のおかげで、困難を乗り越える事ができました。これからも、勇気を持って前に進んで行きたいと思います。
「九年間の思い出」
森本 美輝
遅刻したり、先生に叱られたり、赤猫テストで0点をとったり、休み時間に消しゴムでファイトゲームをしたりして、色々な思い出や面白い経験をした補習校。一年生からずっと九年間補習校に通いました。一年生のクラスは、二クラスある大人数の学年でしたが、今は十一人しか残っていません。そしてそのメンバーは、みんなとても個性的な人ばかりです。
私は、今年十六歳になり、あとほんの二カ月で中学校を卒業します。今、思えば私が一年生の時からずっと、補習校を早く終わらせたいという夢が、いつのまにかそこまでたどりついている事に気がつき、言葉では言い表せない気持ちでいっぱいです。
一年生の初めの頃、私には友達がいませんでした。また、私のオーストラリアの学校から来ている友達もいませんでした。だけど、クラスはいつも賑やかでした。一年二組だった私の担任は、のりティー先生。特に珍しい思い出はありませんが、いつもみんな笑っていました。
三年生になると、授業中に少しクラスの緊張感が出てきました。それは、恐らく担任の陽子先生のお陰だからだと思います。厳しい陽子先生から、とてもたくさんの事を学んだのを覚えています。でも、学年末テストは本当に難しかったです。授業の後、私達はよく休み時間になるとクラス全員でよく鬼ごっこをしました。サンパシフィックのビル内をあちらこちらに十二人の三年生が走り回っていたから、先生から怒られても仕方ない。それが、また面白かったです。
五年生になって、私は少し勉強をし始めました。それは、クラスメートの良太君とはるき君と三人で、一緒にテストの結果を「1,2,3」でぱっと見せ合いをするようになったからです。点数を見せ合う相手ができると、やっぱり少しだけ真剣になりました。面白いのは、みんなぎりぎり一点か二点の差で勝ったり負けたりするからです。たいした点数ではなかったのですが、とっても面白いバトルでした。この学年の時の楽しい思い出が今でもたくさん残っています。平瀬先生にも感謝しています。
六年生から中一まで、またいつの間にか人数が減ったりしましたが、新しい友達もできました。それでも、クラスはいつも通りに盛り上がっていました。すごく珍しいのですが、男子よりも女子の方がうるさくなってきた感じです。
中学二・三年はとても気楽な雰囲気になりました。中島先生の授業は、ちょっと変わった先生の昔話やアンケートをしたりするので面白かったです。こんな思い出を振り返ってみると、卒業するのが嬉しいけど、ちょっと悲しい気もします。これまでの補習校を「やれ!」と言った母に感謝しています。
クラスのトップではなかったですが、二ヶ国語を話せるのはとても大切な事だと思うようになりました。これからも違う言葉や色々な事にチャレンジし続けていきたいです。お世話になった先生方や両親に「ありがとう。」と言いたいです。
<編集後記>
本年も力作が揃い、全校作品を一番に読ませてもらう幸運に接して、嬉しく思っております。 例年全校生徒からの提出がありましたが、今年は『できない』『(子供が)やらない』『やらせなくともよい』 という保護者の判断で、未提出生徒が出てきました。 足並み揃えて全員同じことをさせることが困難な、個人主義の時代の意識が強くなってきたと感じる他、補習校は、選んで通う学校であり、各家庭の意志で辞めることも自由ですので、作文一つとはいえ、強制はできません。 ただ、やはり教育の場であるかぎりは、その方針を尊重する姿勢は大切かと思います。
作品には、生徒一人一人の個性が溢れ、全てが味のある内容となっています。 どの作品を読むにつけ、その子なりの考えや思いに、それぞれ感慨に浸れます。
紙と経費の削減を目的に、昨年度より、ウェブ掲載になった『大空の架け橋』は本号で11年目を迎えました。 できることなら冊子で配布が理想ですが、今回もウェブ掲載です。 しかし、昨年の作品は、既に探せなくなっていて、ウェブ掲載も良し悪しですね。 残念です。
その理由や、一番慌ただしい年度末に編集する、教師たちからの意見もあり、『大空の架け橋』は、今号で一旦休止することになりました。 その代わり、毎月の『補習校だより』は、更に充実した内容でお届けする予定です。
毎月の、クラスごとの報告、お便りを、引き続きお楽しみ下さい。
ケアンズ日本語補習授業校
キャメロン紀子
