
校長だより 弥生 2016年



明けまして おめでとうございます。
皆様には 穏やかな良き新年をお迎えのことと お喜び申し上げます。
日頃より、ケアンズ補習校へのご協力とご理解を賜り、感謝申し上げます。
本年も、補習校教師一同、誠意を持って、大切なお子様方の成長のお手伝いをさせて頂く所存です。
どうぞ宜しくお願いいたします。
平成二十八年 元旦
ケアンズ日本語補習授業校校長
キャメロン紀子

十一月七日に、年一度の書道教室が、中川先生の指導のもと行われました。
生徒数が多くなったので、担任は元より、保護者役員の朝早くからの準備と、授業中は墨の補充、半紙の配布、終了後は片付けにお掃除と、例年以上に大変お世話になりました。
おかげさまで今年の書道教室への、生徒たちの参加の意気込みは益々積極的で、日本文化を経験できただけでなく、更なる日本語学習の向上心に繋がる様子が見えて、先生方の感想も、伺うと大変嬉しく思うことばかりです。
では、皆さんの熱心な姿と、先生方の感想をお届けします。

「3年生、初めての習字教室」 小学三年担任 ウォリス依子
今日は3年生クラスにとって初めての習字教室となりました。習う字は 「花」。正しい姿勢、左手の置き方、筆の握り方、動かし方を丁寧に指導してくれる中川先生のお話をよく聞くことができて、皆大変立派でした。
一番印象に残ったことは、子供たちが目を輝かせながらお手本どおりに書こう と努力する姿でした。筆をうまく動かして、とめ、はね、はらいを一生 懸命練習する彼らはとても真剣で、集中していたからです。
清書が済んでからも「ずっと習字を練習したかった~。」とか、「今度はいつ できるの!?」というぐらい本人たちも楽しく学べたようです。
最後に、習字教室をするにあたって子供たちが伸び伸び学べる環境を作って下さった中川先生をはじめ、保護者役員の方々に感謝いたします。ありがとう ございました。

四年生 担任 鳥山夏子
お勉強に熱心な4年がんばり組さんは、いつもの授業と同じように、集中して取り組んでくれました。
自分の納得がいく文字が書けるまで 何度も練習を繰り返し、妥協をしない姿が印象的でした。
真剣に、しかし楽しそうに取り組む、キラキラと輝くみなさんの姿を見ることができ、担任にとっても本当に嬉しい時間でした。

五年生 担任 江藤彩
今年の五年生は「実力」という二文字に挑戦しました。
使い慣れない筆に奮闘しながらも、書き順や運筆に気を付けて、一生懸命取り組む姿は立派でした。普段の授業中には見せないような集中力でした!限られた時間ではありましたが、参加者全員が何とか清書を書き上げ、ちょっとした達成感を味わいながら教室に戻りました。

六年生 担任 ハセット聖子
六年生は「前進」という言葉を楷書体で書きました。普段使い慣れていない筆で字を書くのは、嬉しいような怖いような、そんな緊張感の混ざり合った雰囲気の中で、何枚も何枚も時間の許す限り練習をしました。
中学一年 担当 フランシス沙文
中一は行書で「緑」という字を書きました。いつもと違う字の書き方やバランス、書くスピードの強弱などに悪戦苦闘しながらも、限りある時間の中で、納得のいく作品を作り上げていく姿はとても立派でした。

中学二年 担任 中島信也
習字教室では、2年生は「栄光」、3年生は「無限」と行書で書きました。2年生はお手本を誠実に描写しようとしている姿、3年生はお手本を参考に、自分らしさを表現しようとしている姿が印象的でした。一年に一度、筆を手にする生徒が多いと思いますが、「書」に取り組むと言うことは気持ちを落ち着かせて、集中して物事に取り組む訓練にもなりますので習慣的に取り組んでほしい事の1つです。

中学三年 担任 益宮純子
中2中3共に、いつものクラスでの顔とは違った表情をそれぞれみせてくれました。みんな何度も何度も練習用の紙を下さい、墨汁を下さいと催促して目をキラキラさせていました。
「先生、字がおさまらないんだけど・・・。」「ここが上手く書けないんだけど、どうしよう」と・・・。一生懸命納得のいく字を書きあげるまで必死に向き合う姿勢が素晴らしく印象的でした。
出来あがったみんなの清書を見て満足そうに帰って行きました。
みんなにとって本当に文字を書くことの価値を見いだせる素晴らしい時間だったと思います。


10月24日、本年の全校遠足で、ジャパカイアボリジナルカルチュアルパークに行ってきました。午前中は普通授業で、午後からの慌ただしい短い遠足でしたが、小学1年生から中学3年生までの生徒たち約80名が元気よく集まりました。
亀やウナギが生息している橋を渡った向こうの広場は、それほど変わっていませんが、新装のジャパカイの玄関はとてもモダンです。みんな地元の子らばかりですが、初めて訪れた子たちも何人もいて、何が起きるか、何があるのか、キョロキョロ。
まずは、ブーメラン投げ。 一人ずつしか投げられないので、危なくないようにネットの中で待っている子たちは、何だか檻の中の動物のようで、ちょっとおかしかったですよ。

みんな、投げるポーズはとても良かったのです。ちゃんと戻ってきたかどうかはともかく・・・。
やり投げは、投げてみたい人だけで、やや技術が要ったので、それほど人気なく、それよりも座った途端に、みんなおやつを食べ始めてしまいました。 あれれ?お昼食べてきたばかりですよね? その間にも、フェイス・ペインティングされた顔が増えてきました。

「ウフフ、にあうでしょ!」
次は、ダンスや、ディジャリドゥーの演奏の見学です。いつ見ても、カンガルーの真似は滑稽で上手ですね。

この日の火起こしは、少し時間がかかって大変そうでした。

そして、会場いっぱいのお客様たちと、大合唱。
『バンバナーラ ボラボレー!』
みんなも混じってアボリジニダンスをしたあとは、『マジックワード』で、記念撮影です。 「チ~ズ」 よりお口が大きく開いて、みんな笑って、よいお顔で撮れました。

ササ~!
この後、武器の説明、そして、ブッシュで採れる食べ物のお話、ダンスショーや天地創造の、360度画面シアター体験など、座って、見たり聞いたりの場が多かったのですが、みなさんおやつを食べながらも、落ち着いてよく聞いていて、感心しました。
良い子たちと一緒にいると、気をつけながらもとても楽しいです。みなさんに、「楽しかったー」といってもらえて、準備して下さった皆様、引率の役員や先生方、ジャパカイのスタッフも、みんな嬉しい気持ちで一杯です。全員に、感謝致します。ありがとうございました。
担任教師たちにとって、2学期は4学期に続いて忙しい学期です。通常の土曜日の準備に、学期末テスト、三者面談、学習のあゆみ作成などが加わるからです。ケアンズフェスティバルや盆踊りと、楽しくでも外出の機会が多い行事も続き、ようやく、短いホリデーに入ります。ホリデーと言っても皆日常の仕事を持つ先生方ばかりなので、学校は休みでも、仕事を休んではいられません。
仕事や家事に追われながら、このお便りを書きながらも、目の前の窓から青空を見上げ、緑濃き庭を眺め、様々な鳥の声を聞くと、つくづくいい所に住んでいるのだなあと改めて感じます。 日常の忙しさや、滞っている問題など取るに足らないことだとも思えてきます。
今年の春は一旦暑くなったと思いきや、まだ爽やかな日が続きますね。 ビーチに行けば、コバルトブルーの空に、ミントグリーンの海に、風に吹かれる椰子の木が見られます。
補習校の生徒たちは、月曜から土曜日まで続く学校で、その上スポーツや音楽やらのお稽古事も忙しいようです。 一部の皆さんの日記を読ませて頂いていますが、友達の誕生会は毎週のようにあり、休日は家族と観光やドライブに出かけ、日々充実した、親子ともども忙しくとも楽しい時間を過ごしている様子が伺えます。
これだけ忙しく動き、目前の仕事なり、作業なり、するべきことを次々こなしていれば、悩む暇などないかもしれません。 とは言え、生徒たちからは時折、友達との間の問題、仲間はずれにされている、意地悪な態度を取られる、などの話を聞くことがあります。
現地校や、お稽古先での話もありますが、補習校の生徒と共通している友人、知り合いが多く、土曜日の補習校の授業にまで、影響している場合も、時にはあるようです。
周知のように補習校授業は時間も限られ、学習内容も多く、1分でも惜しい勉強体制ですので、5分間のトイレ休憩中にいざこざが起きたり、授業中に机の下で蹴り合っていたり、消しゴムを投げたり、人のノートや教科書にいたずら書きをし合ったり、という問題は、補習校に来る本来の目的に適っていません。
授業中に、先生の説明を聞いていなかったのが理由で、何をしてよいかわからない結果、自分で授業をつまらなくしている。自分がつまらないので、いたずらをしたり、おしゃべりしたりして、他の友達の勉強を妨げたり、先生に注意されたりする。 補習校の皆さんなら、そういう事は良くないのだと、充分理解しているでしょう。
補習校は、特別もっと勉強したい、という人のための学校であって、またそういう人たちが選んで通学する学校です。補習校を選ぶ権利は、勉強をしたい人にあります。ちょっとだけ、自分はなぜ補習校に、土曜日の朝にまで、通っているのか、もう一度考えてみては如何でしょうか。
また、何か嫌だなと思うようなことがあったら、一人で考え込まないで、両親、先生に相談して下さい。
そして、青い大きな空を見て、深呼吸しましょう。広い空を見て、広い海を見て、自分の気持も大きく、気持よく、広げていきましょう。

校長だより 2015年 葉月
我が家でアヒルの卵が孵ったのは、この8月で4度目になりました。日本にいた頃は、鶏やアヒルを間近に見る機会も殆どなく、そういえば、各種動物も、鳥や虫も、ケアンズではそこにいて当たり前のような生活になっています。
ところでこのアヒルの母親ですが、本能とはいえ、約30日も卵を抱き、孵ってからは成長に従い、少しずつ行動半径を広げ、水浴びを覚えさせたり、危ない目に合わないように、ヒヨコ達のチョコチョコ遊ぶ様子を注意してみていたりと、その面倒見のマメさには何と健気なことよ、と見ていて愛おしくなります。
数日前、何かを察知したのか、ただ、ヒヨコ達が広がり過ぎたので注意したのか、庭でピイピイとうろちょろしているのを見ていましたら、母鳥が、一声低く、クッと鳴いた途端に、それが「集合!」の合図だったのか、「危ない!」という警告音だったのか、まるでマンガの早送りのように、少し散らばっていたヒナたちが、あっという間にささっと母鳥のそばに集まってきました。そばで一緒に見ていた子供も、『あれ? なに今の?』 というように、目を丸くして、私とお互いに顔を見合わせ、その後二人共大笑いしてしまいました。
動きは面白かったものの、この躾の良さには、子供ながらに感心したようです。 『よく、お母さんのいうこときくねー。』 と。
こんなヒヨコ達ですが、大きくなるに連れ、行動半径が広がり、自立心が付くのでしょうか、段々母鳥の言うことを聞くこともなく、好き勝手に出歩くようになります。また、ヒナによっても、性質が違うのでしょうか、4月頃に生まれたヒナたちは、まだ羽が黄色いうちに、フェンスの下のすき間から、どんどん近所に散歩に出かけ、中には、マルグレーブロードを横切り、バラクラバ小学校の庭まで散歩に行き、先生に見つかってもらわれて行ったものまでありました。
フェンスの下のすき間は狭くて母鳥はくぐれません。子供たちが出て行ってしまう度に、母鳥は、鳥にも表情があるのでしょうか、困ったような、悲しいような顔で、飛べないはずなのに、バサバサとフェンスを乗り越え、子供たちの後を追って、時間がかかっても何とかまとめて連れ帰って来ていました。
先日補習校の廊下を、誰かが疾風のように走って行った姿を見かけましたので、戻ってくるところを見はかり、(戻ってくるときもハヤテでした) 「走らないで!」 と一言声をかけましたら、即座にピタッと止まって歩き出したのを見て、このアヒルたちの、「くくっ!」「サッ」という動きの印象が重なった次第です。
元気な低・中学年の生徒たちで、休憩時間には、たった5分でも、誰かしら走る子が出てきます。何度注意してもどうしても走る子は出てくるのですが、それでも注意すればピタッとやめてくれます。大人(親、先生)に注意されれば、はっと気が付き、言うことを聞く、何度か同じことを繰り返しても、言われればやめ、そしていつの日か注意されたことはしなくなる。それが諦めない躾であり、長い目で見ていく教育でもあります。
人の子は一朝一夕に大人にはなりません。子育ても教育も、繰り返しを恐れず気長に積み重ねていくことが大切です。ただし時には、厳しい躾も必要です。裏庭のアヒルだって、群から離れて冒険し過ぎる子は、母鳥に頭を咥えられているのですから。

この四月から、小学部の教科書が改訂されたことは、皆様ご存じの通りです。 改訂に当たっては、何年も前から、多くの教育関係者が、時代に合った最新の情報を取り入れながらも、温故知新、現在ができるに必要であった歴史を踏まえた内容を検討されている事でしょう。大変な作業とはいえ、教育者にとっては、楽しい、また羨ましい作業とも感じます。
教師用指導書は、所謂赤本と呼ばれていますが、中にびっしりと、指導法、注意点が赤文字で書かれ、値段も高額です。大人の知識として、漢字や計算は知っていても、これらの内容を年齢の低い子供たちに教えて行くという技術は、一つの特技と言っていいかもしれません。この技術を養うために、我々教師たちは十代から教育者になる事を意識し、学生時代に、各科目の知識の他、心理学、児童心理学、教育心理学、教育学、教育倫理、教育の歴史、日本国憲法、その他様々な教室運営に関する事項を学び、その後は学校勤務、もしくは塾で指導など経験を積んできました。
現時点で教える対象は、英語世界に住む、寧ろ、英語が母国語である子供たちです。更に、年間39回しか会えない子供たちに、二教科だけとはいえ、難解な日本語を国語として紹介していくには、担任は、その学年の毎週の授業のみでなく、前後の流れを考え、どう次の学年の学習につなげていくかまでの計画が必要になってきます。
どの学年にも言えることですが、その学年でよく理解できなかった学習は、その後上の学年に行ったからと言って、自然に解消するものではありません。 年齢が進んだために、理解力が上がって「あ、こういうことだったのか」と気が付くことも、中にはあるでしょう。 けれども、一年生の時に習得できなかった、カタカナ、漢字は、そのままにしておけば、更に忘れるだけで、三年生になったからと言って、急にできる物でもないのです。
低学年の内の学習は、殆どが日常必要な物事であって、基礎的な読み書き、日付や、曜日、時計の読み方、買い物の時の計算等、常識的な知識ばかりです。それを言うなら、義務教育中の学習はすべて日常に必要なことであって、それだからこそ義務教育という枠に入っているわけなのですが。これらは、英語日本語関係なく、当り前のように身についてなくてはならないものです。
さて、一年生の算数の指導書には、片隅に「板書例」というものまで掲載されています。普段は特に「例」に従って書くこともなく指導しているのですが、よく見るとその「板書例」に、日付が書いてあり、そこに、「4にち」「6にち」「14にち」 などの表記があり、大変驚きました。
短い補習校の指導時間の中で、如何に効率的に、現時点での「正しい日本語」を聞かせていくかという事に気を配っている我々としては、「ら抜き言葉を使わない」「丁寧語で会話する」「正しい書き順・読み方」等、常に心がけています。
日付の言い方や、モノの数え方(助数詞)、曜日や季節にしても、教科書に出てきたからその時学べばいい、教科書にない内は教えなくてもいい、ではなく、毎回の授業で取り上げていくことで、自然に身に着けて欲しい語彙です。とはいえ、39回しか聞けない場合もあるという、短い指導時間なのですから、例外を教えて、「こうも言うけれど、ああも言える」などと複雑なことを言っている暇もなく、ましてや1年生には、なるべくひとつですっきりする言葉を選んでいきたいという方針で指導しています。
「ついたち・ふつか・・・・」 の言い方は、一年生の国語の教科書(下)に出てきますが、これらの理由から、授業第一日目から既に導入しています。 最初はひらがなで書いた日付も、簡単な日常的な漢字は、生徒に書かせなくともまず、目に見えるようにもしています。 そのような指導を心掛けているところへ、指導例で、「ヨンニチ、ゴニチ、シチニチ・・・・」 と書かれていることに驚き、「教科書質問係」に、質問メールをいたしました。
質問内容は、かいつまんで言うと、教科書(下)で、日付の(正しい)言い方を学ぶので、この日付の言い方は、児童に混乱を招くのではないか。 また、言葉は生きているので、もしや日本では、そういういい方も、許されるようになったのか、という点です。
「言葉は生きているので」とはつまり、最初に文法ありきではなく、自然と使われている言葉の中に規則性を見つけ、それを文法にしたという順番が、言語の本来の成り立ち方であり、文法には、たくさんの例外もあるからです。
最近では、十の数え方で、これまで、「じっこ」「じっぽん」「じっかい」「じっさつ」 という読み方が文法上正しく、 「じゅっこ」「じゅっぽん」「じゅっかい」「じゅっさつ」は、東京地方の方言であり、(私はどっぽりこの方言で育ったわけですが)日本語指導では気を使わなくてはいけなかったところ、「じゅっぽん」と発音する傾向が一般的になったため、平成二十二年より、教科書にも、「じゅっ」 という読みの表記が認められた事実があります。
その内「ら抜き言葉」 も、文法の方を改められる日が来るかもしれません。現実はまだ教科書内で「ら抜き言葉」は、使用に至っていませんので、話し言葉や作文でも訂正しております。
ところで、先の、教科書質問係から、返信が来ました。 こういう表記をした理由は、一年生ではまだ、漢字・漢数字を習っていないから、ということでした。 具体的な説明として、『算数教科書として、算用数字は使用したい。従って、「4日」 という表記で、正しくは「よっか」 と読まず、漢数字を用いるとすれば、「四か」が、正しい。 それゆえ、4しか習っていない一年生には、「4にち」 と書くしか表記のしようがない。』 のだそうです。
それなら、ひらがなで「よっか」 と書けばいいのにと思うのですが、算数教科書として、どうしても算用数字を使いたかったのが理由でした。 しかしながら、教科書は世界中で使用されていること、日本語が必ずしも毎日聞ける状態ではない子供たちも学んでいることなどは、理解して下さったようで、『次回の(3年後の)改訂に際しては、考慮して参ります』とのお返事を頂きました。
言葉は生きています。日付の言い方で言えば、私は七日を「なぬか」 と習いました。今では、「なぬか」と言っている人は周りには誰もいず、私自身も、少しばかり違和感を感じながらも「なのか」と教えています。
新しい語が増え続け、死語となる言葉も多々あります。 それでも、英語の世界では、ラテン語を学び、シェークスピアを学びます。高学年の皆さんは、シェークスピアの400年前程度の古語などものともせず、千年も前の古典文学で、その雅な音調に触れ、心豊かな時間を楽しんでいることでしょう。
会話でも書き言葉でも、言葉で意思疎通のできる人間として、言葉の意味や文法が変換していくとも、使われて心地よい言葉を大切にしていきたいものです。
あなたは、挨拶やお返事を、気持ちをこめて言えていますか。必要な時には、心から 「ごめんなさい」 が言えるでしょうか。
和気藹々の楽しい授業が続く、良い子たちばかりの補習校ですが、時々ちょっとした理由で、誰かが泣いたり、ケンカになったりする事があります。
先生方は、起きたことはその場で解決しようと、理由を聞き、何がいけない事だったのか確かめた後、「ごめんなさい」と言える気持ちになれるよう、当事者に話します。
子どもの、ケンカに至る不満は、大人になって思い起こしてみると、ああ、なぜあんなことで、意地をはったり、ケンカをしてしまったりしたのかなあと思えるような理由が殆どだと思いますが、子供時代には、その些細なことがとても大事なのです。子どもは、その性格をわがままだ、と表されることが、間々ありますが、それは仕方のない事でもあります。なぜなら、大人に比べてまだ世間も狭く、行動範囲も狭く、経験も少なく、従って、視野が狭く、その狭い中での判断しかできないのですから。但し、思いやりなく人を、心でも体でも傷つけたら、それは、大人や教育者、保護者が注意し、理解できるように諭すべきです。
海外では、交通事故の場合など、ソーリーと言ったら、自分の非を認めることになり、言った側が修理費を払わないといけないので、絶対ソーリーと言ってはいけない、と聞きます。日本との大きな文化の違いですね。もしくは、文化の違いの怖い面の一つだと思います。とはいえ、何でもかんでも、すみません、申し訳ない、ごめんなさい、と、言葉だけで言って、心がこもってなければ、それもまた問題です。心のこもっていない「ごめんなさい」は、相手を一層腹立たしくさせます。
海外生活を始めて更に気付いたことの一つは、相手に不利な事をしてしまった場合に、「アクシデントだったから」 とか、「これこれがこうだったから、だから、そのせいで・・・」 などの、いわゆる言い訳が良く聞かれるという事です。大人の場合でも学校で見る子供たちの間でも、謝る前にこの、「悪気はなかったんだから」とか、「理由があって仕方なかったんだから」 とは、しばしば耳にする機会があって、余り良い気分がするものではありません。これらも、自己主張の強い国の文化と言えばそうなのでしょうが、大人でもこの傾向の多いのは、自己正当化、つまり、我儘な、狭量な子供のまま成長してしまった気がするのは、私だけでしょうか。時代のせいもあるかもしれませんが、それにしても、国のせい、文化のせいでなく、どこの国でもどの時代でも、気持ちの良い人は育つのですから、個々の家庭の躾、もしくは教育が大きい影響を与えているのではと、大いに感じます。
相手を少しでも傷つけてしまった時の、「ごめんなさい」だけでなく、 「はい」という返事も、イヤイヤながら言うのは、もしくは言わないのは、それが言い合いなりケンカなり、叱られて泣くなり、という事態につながって行ってしまいます。結局することは同じであれば、気持ちよく「はい」と返事ができれば、相手も気分が良いし、自分自身もそこで一歩、高尚な自分になれた気がするのではないでしょうか。
勉強中、「さあ、これこれをしましょう。」 と声を掛けると、たまに 「え~~(やりたくない)」 などという声が聞かれる場合があります。他の先生方に聞いたことはありませんが、私個人はこの返事に対して厳しく叱ります。叱られると生徒は 「しまった!ノリティを怒らせてしまった。」というような表情で、真面目に勉強を始めますので、叱られたことで、詰まらなくなったり、却って腹が立ったりせず、理解してくれて、きちんとしなくちゃ、と思ってくれていると信じます。多分、「え~」 と言っても、本気ではなく、甘えで言ってみたい時もあるのでしょう。 本人が「しまった!自分がいけなかった。」 と思う事が大切です。思ってもらえるような叱り方がコツです。
さてあなたは、お母さんに何かするよう言われた時、「え~今これやってんのー」とか、返事をしない態度とかを取ることがありますか。何か言われたら、まず、「はい」です。 そしてどうしてもすぐできない様なら返事の後に、「今これこれをしているので後でいいですか?」と聞くべきです。また、お母さんは、「お母さん、お母さん。」と呼ばれた時に「今忙しいの。」とか「あとで。」または返事をしないことがあるでしょうか。もしそうでしたら、子供はそっくり真似することでしょう。
まずは、「はい」。 そして、ついうっかりでしてしまった失敗でも、悪気がないのだから仕方がない、ではなく、最初に 「ごめんなさい。」 もちろん、意識して意地悪をすることは、言語道断。 意地悪をすると、気持ちがすっきりするでしょうか。人に意地悪をすると、相手が気分を害するばかりか、実は意地悪をした自分自身こそ、とても気分が悪いのではないですか?
そう考えられる能力が、人間に与えられた、知性であり、教養であると信じます。
